2008年12月10日水曜日

海の風と雲と1-3

長男が教えてくれたのだが、バナーの貼り付けはソースを表示してbodyとbodyのあいだに書込めばいいそうだ。いや、知らなかった、いずれ一件の入門書なり目を通さねばなるまいが、それにしても時間が惜しい。






一人の私が、一個の爆弾をもって、最も多くの人に、最も強い衝撃を与えるために

天皇を狙うことは、最も能率的だということを記憶しておいてください。

(金子ふみ子)




 誰が投げた飛礫やら、詩人金子光晴がガラスに咲いた創の花に見入っていたころ、日本の社会の底辺には少しずつ変革を萌す粒子が異物のように舞い降りて、鉱物的なその粒子たちは種にもならず芽も出さずに深く沈んでは腐っていった。

絶望に辿りつくまえに早くも諦めが拡がる、世界史的に観ればかなり特殊な土壌にこそ、日本という島国の心情は育まれていったらしい。

ここは平河町にある粒良の屋敷内の一室。時刻は明け方に近い。

「そもそも公武合体に傾く孝明天皇を、側仕えの妹を唆して砒素を盛って毒殺したのは、下級公家の執事岩倉具視だったそうじゃないか?」と、床柱を背に胡坐をかいた粒良が泡盛の古酒をぐびりと飲む。「主上が筆先を噛む癖が抜け切らぬのを見澄まして、磨った墨にたっぷりと砒素を含ませて置いたんだってな!」

「いや、あれは長州藩下忍の伊藤博文が厠に忍びこみ、特殊な槍で主上の尻を突き上げて刺殺したのが事の真相だ。ごく単純な手口さ!」と、吐き捨てるように〈火の玉小僧〉が言い返して盃をあおる。「だいたい明治天皇にしてからが、虚弱な真帝がいつのまにか相撲好きの大室寅之助なる若者の偽帝にすりかわっていたじゃないか!」

「そうして初めて成った薩長による王政復古・倒幕・明治維新政府であるというのに、政権の正統性を無理にも主張するためにか、台湾、朝鮮を侵略し、あたら内外の若者の命を蕩尽して日清・日露の大戦争をおえたころには、この日本の脆弱な天皇制資本主義がいつのまにか欧米並みの帝国主義的な植民地経営の衣をまとっていた!」

「薩摩輩は琉球・奄美三島を搾り取ったその同じ手口で、いまは台湾・朝鮮・アジアを搾取している」

「そうとも国内の矛盾はもっぱら海外での戦争で解消、あるいは糊塗するパターンが常道化して、アジアの犠牲のもとに二十世紀の現代に至るも日本は「神国」のまま、日華事変・大東亜洋戦争へと突入してしまったんだ!」

「こんな可笑しなことがあるだろうか? それなのに国民は少しも疑わない。およそ歴史を識る者は口を噤んで語らない。これを時代閉塞の状況と呼ばずしていったいなんと呼ぶんだ、ええ?」

酒を飲んで慨嘆するほどのことならば、誰にでもできる。怜悧な粒良にしては珍しいことだった。久し振りに密かに訪れた〈火の玉小僧〉をまえに、公務の傍ら秘密結社に関わる日頃の内心の辛苦が酔いを呼んだのかも知れない。確かに少しずつ変革を萌す粒子は、なるほど種にもならず芽も出さずに、日本の社会の底辺に深く沈んでは淀んで澱となっていったけれども、たとえ腐った粒子ではあっても四十年、五十年のあいだには層をなし、秋至れば泥流となって迸り出ないとも限らなかった。

一九一〇年八月に石川啄木が記した文章は今も生きている――『時代閉塞の現状』(強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察)。

《我々は一斉に起ってまず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。》




 別に目新しくもないが、注意深く観察すると、何かこれまでとは異なる潮流の一端を示唆するのかも知れない事態が、たとえば一九三〇年代から日本の内地ではなくて、傀儡の満州国で深く静かに進行していた。

ユダヤ難民の流入が拡大を続けていた。

ナチスの迫害を逃れて、酷寒のなかシベリア鉄道で二週間余にわたる旅をして、国境の町、満州里、そこから丸一日費やしてハルビンに到着したユダヤ難民たちは、上海や日本あるいはアメリカなどに向けて通過するのは自由だったが、望めばハルビン滞在の自由を与えられたばかりではなく、滞在三ヵ月に及べば誰にでも満州国籍が与えられた。

破格の優遇措置といえる。当然、官僚のなかには難癖をつける者も出てくる。だが、そうした者たちはほどなく、不思議と左遷されていった。結社の意志が働いたのである。

ユダヤ人排斥を公然と否定するばかりか、ソ連と交渉して、難民の安全、速やかな移動のために便宜を図っていった。そうして定着したユダヤ人たちには広範な自治権を与え、官職は無理としても、さまざまな職場を提供した。こうした一連の措置は歴史の裏返しにも似て、混沌たる暗闇の中に一筋の光が射しこんで来るかのようであった。









 日本内地でも、強いて挙げれば、変わった動きがまったく無かったわけではなかった。

それは、たとえば外相松岡洋右に送り届けられた、たった一枚の葉書であった。

日付は一九四一年七月十五日。近衛内閣が二度目に総辞職する前日のことであった。文面はいたって簡単、

「来る七月十七日午前零時に、皇居桔梗門に出頭せよ」

とだけあった。差出人は記されていない。ただ、淡いブルーの粗末な紙に菊の紋章が黒ぐろと刷りぬかれていた。

洋右はむろん、単身で、鬱々たるおのれだけの想いに耽りながら、深夜のお濠端を歩いて、定刻に桔梗門外に出頭した。門内に招き入れた皇宮護衛官が無言で指し示した幌付トラックの荷台に、多少、心外な思いを押し殺しながら、苦労して乗り込んだ。

腰を落ち着けてから、暗い荷台のなかに眼を凝らせば、何のことは無い。見た顔ばかりである。いずれも外務省の高級官僚三十七名だった。年齢も出身地もさまざま、むろん、省内でのポストも違う。

彼ら三十七名の共通項を探るとすれば、洋右本人もてこずるような、いずれもバリバリの親独論者であった、という一点ぐらいのものであろうか。

深夜の海岸通りを疾駆した幌付トラックががくんと止まり、潮風に促されるように降りたってみれば、そこは竹芝桟橋で、目のまえには追加の彼ら三十八名の遅れた乗客たちを余さず乗せてゆかねばならぬ、ただその一事ゆえに、出港を延ばしに、延ばされ続けてきた、迷惑顔の内南洋行おんぼろ貨客船が、いままさに舫いを解こうとしていた。

じっさい彼らの乗船がかくも遅れたのは、ひとりおんぼろ船にとってのみならず、アジアの民衆や日本国民にとっても甚だ迷惑なことであって、せめて松岡洋右が「満蒙生命線」を唱えた一九三〇年に、彼ら全員が内南洋へ粛々と旅立っていてくれたなら、三三年の国際連盟脱退、四〇年の日独伊三国同盟はなかったかも知れず、四一年四月の日ソ中立条約もなかっただろうが、この年十二月の日米開戦という破目にはいたらなかったことだろう。

追い立てられるように乗船した洋右一行が、揺らめく細い明かりを頼りに、三等船室のほの暗い大部屋に降りたってみれば、暗がりの隅に胡坐をかいた大入道が三枚重ねた畳のうえにそっくり返っているし、その反対側の隅にも、痩せ細った頬に刀傷のある小柄の男がやはり三枚重ねた畳のうえに肩を丸めて坐っている。

あいだのただの板敷きには、大入道のほうを向いて十七人、小柄な男のほうを向いて十三人が、いずれもすでに若くはないが、中年じみた分別のかけらも見せない男たちがまちまちな姿勢で、膝を崩していた。

あとから来た洋右一行としては、板敷きの真ん中に空いたスペースに、肩身の狭いインテリ顔で、手持ち無沙汰に車座になるほかはなかった。

この奇妙な相部屋の三等乗客たち六十八名を余分に乗せたおんぼろ船が、真夏の半月あまりの長旅の末、おいおい赤道に近づくにつれて、船底の暑熱地獄は人間の我慢の限界を試すかに見えたが、そんななかにもやがて互いの素性がいやでも知れてきた。

相変わらず胡坐をかいているあの大入道は、軍部と結託した右翼の大立者だったし、風采のあがらない小男は浅草のテキヤの大親分だった。この呉越同舟とも、酔いどれ舟ともつかぬ、一行六十八名にいったいどんな共通点があったのだろう? 

何もありはしない。ただ一点、彼らのいずれもが一葉の葉書――淡いブルーの粗末な紙に菊の紋章が黒ぐろと刷りぬかれていた――を受け取って、乗船に及んだという一事を除いては。

「神農氏、黄帝の末裔たるわれらが、〈赤紙〉ならぬ〈青紙〉を賜って、内南洋へ粛々と赴くのは、天の意に叶っている」

と、ひとり納得顔のテキヤのインテリさえいた。

赤道が日に日に近づく大海原のうねりに身体を任せて、松岡洋右はというと、おのれが深く関与した歴史の重圧から、わけはわからぬことながら、なにやら突然、解放されて、暗い船底でひとり晴れ晴れとした顔つきになっていった。

 サイパン島からグアム島までみな一緒だったが、そこからは離れ離れとなり、洋右はヤップ島へ、右翼の大入道はマジュロ島へ、テキヤの大親分はパラオ島へと流されていった。六十八名の外務官僚・右翼・テキヤには、それぞれ一人一島が最終目的地として割り当てられていた。

島の数だけは豊富な内南洋では、それも当然のことで、なにしろ、たとえばヤップ島の周辺をざっと見渡しただけでも、百余の小島と環礁があるのだった。当初は、ひと癖もふた癖もある日本人をそんなにも大量に平和な島々に送り込んで、環境破壊になるのではと気が揉めたものだが、これなら、その心配も杞憂に終わりそうだった。

実は、洋右以前にも「青紙」召集の便船は二十七便あり、洋右以後にも三十四便、計六十二便、都合五千名あまりのあまり有り難くない日本人が、なんと「青紙」一枚で、この南太平洋の楽園に送り込まれてきたのだった。ちなみに、下船の際に、

「最終目的地の島に到着三日後の午前零時に開封すべし」

と、松岡洋右に手渡された菊の紋章つきの淡いブルーの粗末な紙の指令書を、洋右が指示通り三日後の午前零時に、ヤシ油ランプの乏しい明かりのもとに恭しく開けて見ると、そこには黒ぐろとこう記されていた――

《汝、松岡洋右は、当地にて、地域の福祉・厚生のために、身を粉にして働くべし》

右翼の大入道はマジュロ島付近の小島で、現地の妻を三人も娶って、子や孫たちに囲まれて、平和に暮らした。しかもそれがなんとも堂に入って、実にさまになっていた。

周辺各島に散った右翼の幹部たちは、南洋の孤島でたった一人になってみれば意外にも、各人各様にその善良さを発揮して、現地の漁労の改善に努める者、農耕や園芸にいそしむ者、寺小屋を開いて現地の老若男女に文字・算術を教える者など、さまざまであった。

テキヤの大親分はパラオ島で、現地の人びとを苦しめていた悪辣な華僑をたった一人で懲らしめて、男を張ったが、以後は、ひとり釣りを愉しむ毎日だった。

周辺各島に散ったテキヤの若い衆は、各人各様にその気風の良さを発揮して、現地の日本人観の形成に大いに貢献したのであった。

ヤップ島周辺の百余の小島と環礁に分散配置された外務省の高級官僚三十七名ばかりは当初、無聊に苦しむ態であったが、日々の食料探しに追われる状況が訪れてからは、むしろ各人各様に、その環境に適応していったようだった。漸く人畜無害な日本版ロビンソンクルーソーではあった。




10




 決戦の日は来た。

見あげると、すでに独立零戦隊は、闇夜の機動部隊上空八百ないし千二百メートルで、緩い編隊を組んで、青白いガスを吐きながら、艦隊外縁を周回している。

艦内積載組のためにひとまず飛行甲板を空けたかたちだが、百六十機あまりの新型零戦が、さながら蛍の大群のように味方の上空を周回しているのを、こうして実際に目の当たりにすると、じつに心強いかぎりだし、何か非現実的な想いが脳裏を過ぎる。

艦上に眼を移せば、薄暗い艦橋下のすぐ傍で、先刻から電信員兼雷撃手の小島が旋回銃手の小野に話し聞かせている。

「一空母あたり三十ないし四十機の甲板組のうち、狭い飛行甲板上を何とかやりくりして身軽に飛びだした最初の十機、六艦で六十機は、もっぱらこの機動部隊の上空直掩機だ。多いと思うかもしれないけど、高度千メートルまでに二十機、千から二千五百メートルまでに二十機、二千五百から四千五百メートルまでに二十機と、いざ配置してみると、決して多くはないことが分かる。敵機はいつ、どの高度から来るか分からず、百機あまりが一団となって来るのか、二、三グループに分かれて来るのか、同時にか、五月雨式にか、来てみなければ分からないのだから」

「あとはみな、増槽タンクを抱えて、重そうに飛び立っていますね」

「ああ、先制攻撃隊だ。うち五十機が制空隊で、次に発進した対地攻撃隊の五十機は、見ろ、増槽にくわえて小型爆弾三個まで抱えこんでいる。いま発進中の残り七十機はみな、艦攻・艦爆の直衛機だ。彼らお得意の巴戦もままならず、艦攻・艦爆のおもりに終始せざるをえず、ご苦労なことだが、おれたちに言わせれば、ありがたいの一語につきる。これでようやく生還の見こみもつくからだ」

「せっかく敵艦を轟沈しても、帰りに敵機に喰われたのでは、つまりませんものね!」

口数少なに耳を傾ける小野に、調子づいた小島がさらに話して聞かせる。

「さて、精鋭ぞろいの艦内積載組は前からの予定どおりに、対艦用大型爆弾一発を抱えた艦攻水平爆撃隊三十一機、底の浅い真珠湾用に特殊な木製尾翼付の航空魚雷を抱えた艦攻雷撃隊三十九機――むろん、おれたちもこの中の一機だ――計七十機。それから徹甲および陸用爆弾を抱えた急降下爆撃の艦爆隊七十機の、合わせて百四十機。最後に、制空隊艦戦四十三機が発艦する」

「先制攻撃隊と合わせれば、第一次攻撃隊だけで三百五十機あまりか、凄いですね」

「おれたち第一次攻撃隊が発艦終了するや否や、第二次攻撃隊の艦攻・艦爆の発艦準備にとりかかる……零戦の無事生還機は燃料・弾薬の補給が完了するや、艦隊の直掩を交替し、残りは第三、第四次攻撃隊の直衛隊もしくは制空隊として、ただちに発進する。ただしパイロットは、待機中の交替要員がこれにあたる……」

「そういうことですか、分かりました」

「蒼龍」のエレベーター口からようやく雨宮中尉たちの愛機が、すでに魚雷をしっかり抱えて、整備員に押されて姿をあらわした。艦橋わきでの短いブリーフィングののち、搭乗員たちはぱらぱらと愛機に駆け寄る。旋回銃手の小野、電信員兼雷撃手の小島、小隊長の雨宮の順で乗りこむ。

「プロペラ回せ!」

暖機充分のエンジンは一発着火。すこぶる好調。魚雷投下装置の試験も一回でオーライ。

「ゆくぞ」

と、後ろを軽く振り向くと、小島も小野もこころなしにか蒼い顔をしている。無理もない、彼らはいくら桜島上空でしごかれぬいたとはいえ、初陣なのだ。

「屁をひるのを忘れるな、風防閉めてからでは、臭くてかなわん。ストッパー外せ!」

途端に小男の小野が大放屁をやらかした。

「よろしい。今日の獲物は大物だ」と、雨宮。

「小隊長、頼みます」と、神経質な小島。

轟音を発しながらするすると飛びたった雨宮機はいったん「蒼龍」の飛行甲板よりも低く沈下したが、波間に沈むこともなく、浮力をえて次第に高度をとった。新たに機首にとりつけられた十四ミリ機銃を「バリバリ」と試射すると、小野もすかさず「ダダダー」と、旋回銃の試射をやらかした。母艦上空の旋回をおえて進路をとるころには列機の二番機、三番機もぴたりと付いてきた。「蒼龍」艦攻隊の編隊左端に占位しつつ全周を見わたすと、左後方四百メートルの上空に零戦の四機編隊が追尾してきた。

《なるほど、あれがおれたちの守護天使か!》

闇夜になお黒ぐろとした機影が認められただけだったが四機編隊だったので独立零戦隊の連中だとわかる。従来の艦戦はまだ三機編隊だ。東の水平線に目を転ずると、心なしか青白くやや白みがかってきた。海の色も墨一色が薄れて、東のほうから青みがかってきた。右前方の艦攻隊長機の吐く青白いガスの淡い光と小さな赤い尾灯を目安に隣の編隊との間隔を維持しながらひたすら南へ飛ぶだけだが、どうかすると静止しているような、時間が止まったような感覚に襲われる。

《前世のいま、このときにも、おれたちはこうして果てしない洋上を飛んでいたのではなかったか? そのときにはもっと小編隊で、七生報国だとか、もっと決死の覚悟で?》

電信員の小島がうまくハワイのラジオ放送を拾った。軽いジャズを流している。誘蛾灯に吸いこまれる蛾の群れみたいにおれたちはソフトなジャズの調べに吸いこまれていった。まるで目的地に着いたなら翼を休めて憩うかのように。

東の水平線ははっきりと白んできた。下を覗くとようやく海と空が判別できるようになった。天水を分かって青い縞、緑の帯、蒼い袖、じつに惹きこまれそうな魅惑的な縞模様の衣を翻しながら大海原がおれたちを招いている。東の空の色はもっとカラフルだ。赤、橙、黄の雲また雲…… 白黒の世界からいっきに総天然色の世界に入り込んでしまった大編隊。ラジオは天気予報をやっている。

「しめた!」

晴れだとか、風速、雲量はとかいっているが、英語に堪能な中隊長はすでに完璧に内容を把握したことだろう。雷撃機にとって戦場の風向きや風力はぜひとも知りたいデータではあるけれど、数値に囚われ過ぎてもいけない。その場その場でどう変わるか、予測のつくものではないからだ。決め手はやはり魚雷投下時の勘の冴え、パイロットと雷撃手の呼吸の一致、それに必中の信念をもって敵艦に肉薄することだろう。

島はまだ見えない。どこまで続く大海原か。いや、見えた! ぽつんと黒い塊が真南に次第に膨らんでくる。空はだいぶ青みを帯びてきた。島影がぐんぐん大きくなる。あれはオアフ島か? オアフ島だ! ノースショア、パイプラインの大波濤を尻目にカフク岬の海岸線を飛び越え、山並みと山並みのあいだを縫うように大編隊が通過する。

まだ闇の眠りに閉ざされた山肌の木々の梢を翼の左端が掠めるようにおれたちは飛んだ。早起きの牧童少年が口を開けておれを見あげていたかも知れない。尻がこそばゆい。眼下を飛びさる飛行場も敵基地もおれたちの眼中にはない。めざすはパールハーバー、敵艦隊のみ。

港だ、艦隊の林立するマストが見える。空母は? 空母はいない。水偵の報告どおりか。フォード島東岸に戦艦八隻が舫っている。やつらは囮か? 空母はどこに潜んでいるのだ? 左手の山並み沿いにいったん湾外に抜ける。空全体が白んできた。急速に朝焼けの赤い空に変わりつつある。東の水平線に太陽が顔を覗かせるまであと一息だ。ぐるりと大きく左旋回して山並みを越えにかかる。

ひと山こせば目の前はパールハーバーの敵艦船群だ。朝日の最初の曙光を背に浴びながら、おれたちは山肌をダイブする。おれたちがフォード島の敵戦艦群に低空で殺到しだしたとき、上空二千メートルでは艦爆隊がダイブにかかっていた。

「ちくしょうめ、約束が違うぞ!」と、小野が喚いた。

「敵機はいるか?」と、雨宮。

「いませーん」と、小島が答える。

「ならば、よし。集中しろ、目標、左手前の戦艦。まだ撃つな!」

戦艦の横腹がぐんぐん迫ってくる。頭上に対空砲弾が散発的に爆ぜる。小口径の機銃も撃ってくる。目のまえに敵艦の舷側が黒ぐろとのしかかる。波飛沫も風防にかかりそうだ。よし。

「てえーっ」

がくんと機体が軽くなると同時に、操縦桿を起こして艦橋脇を擦過する。後ろを振り向くと、おれたちの航空魚雷が白い水脈を曳きながら戦艦の横腹に突進しているのが見えた。見惚れている間はなかった。

いきなり、白い下腹を見せて鼻先を翔けさったやつがいる。急降下して、たったいま爆弾を投下したばかりの艦爆だ。危ないことをしやがる。爆弾が命中しても味方に体当たりしてどうなる。

そのとき腹にこたえる衝撃とともに機体がびりびり揺れた。おれたちの魚雷が命中したのだ。おかげでおれは愛機の戦艦轟沈の瞬間を見損なったが、小野と小島は見たらしい、歓声を上げている。命中爆弾のせいで翼がまた揺れる。

おれは簡単には上昇に移らずに、目のまえで機銃にとりつこうとしている駆逐艦の水兵を、機首の十四ミリで掃射した。すぐに上昇に移って、愛機の下腹を見せていたら、やつに喰われていたところだ。

しかしこちらが撃っているあいだは不思議と恐怖はない。ついてきた二、三番機も掃射する。彼らの魚雷もそれぞれ目標の敵艦を仕留めたようだ。ここいらで左旋回、上昇に移る。さっきよりも対空砲火がいちだんと激しくなった。追い立てられるように高度を上げる。重い魚雷がなくなって、機体がぐっと軽くなったが、無事、任務を達成したせいで心も軽い。

周囲を見わたし大戦果を確認する。二列縦隊になって舫っていた敵戦艦のうち、外側の三隻が見えない。わが雷撃隊の成果だ。轟沈だ。内側の一隻は、マストだけ覗かして、浅い海底に沈座している。あれは水平爆撃の艦攻が大型徹甲爆弾でみごと仕留めたらしい。

あと二隻が大破、残る二隻が小、中破。ほかにも大型艦船が大破しているし、小、中破しながらも、なお対空砲弾を撃ちあげてくる小、中型艦も多い。あちらこちらでかなり火災が生じている。煙も凄い。

「プシュッ!」

いきなり頭上の風防に大穴があいて見る見る罅が拡がった。頭が寒いのは分かるが、股座が妙に涼しいので眼を落とすと、股のあいだのシートにも小さな穴があいていて、そこから勢いよく風が吹きこんでくる。あと五センチずれていたなら、弾丸はおれの股間を貫通し、心臓まで届いていたかもしれない。やはりL字型の防弾鉄板はこちらにも必要だ。風防をずらして振り向いて下を見ると、シャツ姿の男がカッターの艫に仁王立ちになって、カービン銃片手に、左拳をこちらに向かって振り回している。

《カービン銃で敵機を狙い撃つ男がいるとは!》

おれはやつのヤンキー魂に敬意を表して、つい愛機の尻を少し振ってしまった。長居は無用だ。緩やかに左旋回しながら、さらに高度を上げて、ナナクリ沖の会合地点に急いだ。




手前上空に二機すでに到着して、旋回している。

《ん? しまった! 敵機だ!》

待ち伏せの送り狼というやつだ。一機がこちらに気づいて急速反転、反航してくる。まずい、戦闘機だ。機首をたて直し、遠間合いで十四ミリを二連射してやる。腹を見せたらいただきだ。まっしぐらに突っ込んでくる。チキンレースをやろうってのか? 四銃対二銃、それに図体がでかいだけこちらが不利だ。列機は遅れて、この急場に間に合わない。もう至近弾がびゅんびゅん上下左右を掠めてゆく。衝突寸前にむこうがかわすなら後席、小野の旋回銃で仕留める手もあるのだが……それまでこちらが到底もたない、ボロボロになっちまう。

瞬間、何が起きたか、分からなかった。目のまえの敵機が「ボッ」と火を噴いたかと思うと、あっというまに火だるまになって、その炎の環のなかをおれたちの愛機は潜り抜けたのだった。寄ってきた機がある。見ると、風防ごしに「ニッ」と笑ってバンクするなり、後方上空の直掩の機位にもどった。

《いままでどこにいた?》と、腹だたしいより何より、あの剥きだしの白い歯が、なぜか、懐かしかった。《やってくれるぜ、独立零戦隊!》

 小島が肩を叩いて右下を指さす。見ると白い落下傘が二つふんわりと浮いて銃火のなかでそこだけが平和に満ちている。交差する煙の筋が二本下へ伸びている。二匹の送り狼は退治されたのだ。

《味方が何機餌食となったことか? 間抜けはおれたちだけでたくさんだ》

「小島、小野、帰るぞ」

後れがちだった列機の二番機、三番機――被弾しながらも無事――を確認して小編隊を組み直し、帰還途上の艦攻隊の群れに加わる。すでに水平爆撃、雷撃と急降下爆撃は終わってパールハーバー内外のいたるところに炎と黒煙が立ち昇っている。

戦艦、重巡など港内の主要艦はあらかた撃沈もしくは大破、着底している。オアフ島内の航空基地は爆弾が尽きてから発見された一基地を除いてすべて、艦爆および零戦対地攻撃隊が銃爆撃、破壊している。あとは無事、母艦に帰還するのみ。見下ろせば、朝日に照らされた蒼い海に浮かぶ美しい緑の島が、突然わが身を襲った極度の暴力に唖然とし、身を捩じらし、呻き声を上げているかのようだ。

制空隊艦戦の凄まじい技量を目撃したのはそのときだった。激しい巴戦を抜け出ようとした敵戦闘機の一瞬の隙を突いて、零戦機首の七・七ミリが「タタッ」と火線を送った。すると、後頭部を撃ち抜かれた敵パイロットはがばと操縦桿にうつ伏せとなり、風防の内側を血飛沫で真っ赤に染めた敵機はそのまま飛び去るかに見えたが、やがてぐらりと姿勢を崩して遥かな海面に墜ちていった。

残弾を撃ち尽くした零戦が一機また一機と母艦めざして還ってゆく。折しも空襲下の基地に着陸しようとする敵大型機の上方千メートルから矢のように落下した艦戦があわや体当たりの寸前、翼銃を二、三連射すると、「パッ」と翼がもげて敵機はそのまま錐もみ状態となって基地飛行場に激突した。鮮やかに反転急上昇した艦戦がおれたちのすぐ脇を翔けぬけて高空に舞い戻った。近間での二十ミリ機銃の威力を見せつけられた一瞬だった。

残弾を撃ちつくした艦戦はつぎつぎに母艦めざして還ってゆく。いまやなおも敵の頭上を飛び交い、対空砲火の弾幕をものともせずに思うさま空を舞っているのは弾薬にまだ多少の余裕のある零戦機だけである。対地攻撃隊の零戦が小型爆弾を投下して、列線にならぶ敵機や対空陣地を吹き飛ばしたのち、飛行場の残存機に機銃掃射を浴びせている。

制空隊のなかにも、空に敵機を見なくなってからは、車輪を出して、敵飛行場を滑走、爆弾をまぬがれた敵機に銃撃を浴びせる、無謀なくらいに戦意旺盛な飛行小隊が少なくなかった。

悲劇の島オアフ島が後方の波間に消えるころ、朝日の光に翼端を煌めかした大編隊がはるか前方に見えてきた。破れた風防から吹き込む強風にもめげずに、落着きを取り戻した小島が小野に話して聞かせる。

「あれは艦攻・艦爆連合の百六十七機、第二次攻撃隊だ。彼らの使命はおれたち第一次攻撃隊が見のがした湾内外の駆逐艦、軽巡、補給艦、魚雷艇、潜水艦、潜水艦基地、アメリカ太平洋艦隊司令部、小規模な飛行場、沿岸砲台、原油タンクの一部、弾薬庫、橋、復旧中の主要基地施設、防空陣地などの発見と破壊だ」

なおも喋りつづける小島を尻目に、小野は大空の監視に余念がない。追いすがってくる敵機があればすかさず撃ち落してやろうという構えを崩していない。艦攻・艦爆隊と擦れ違ってから、ものの十分も経ったころ、こんどは零戦の大編隊とあっというまに擦れ違った。

「あれは第二次の制空・直衛零戦隊八十機だ」と、小島がまた言う。「艦攻・艦爆の発進後に艦隊直掩の任を解かれて、燃料を急速補給してここまで追いついて来たんだ。オアフ島の手前百キロくらいまでには制空・直衛の機位に就くことだろう。そのまえに攻撃隊が敵戦闘機の待ち伏せを受ける可能性は離脱まえの敵基地の状況からしてまずない。機動部隊の直掩機が四十機たらずになってしまったけれど、いまごろは三段索敵の三段目の水偵が飛びたったころだし……

敵空母はまだ見つからないのでしょうか? ねえ、小隊長?」

聞き流して応えずに、ふと眼下に眼を転ずると、流れさる千切れ雲の下に朝日を浴びて突進するわが水雷戦隊が見えた。先頭は「阿武隈」か? その右に六隻、左に六隻、八の字型にベテラン駆逐艦が展開して、白波を蹴たてている。今夕にはオアフ島西北カウアイ海峡に達するであろう彼ら、小艦隊がどのような海戦を具現するのか? これは見ものだ。あの中には同志一色の乗り組む「陽炎」の雄姿もあるのだ。

そろそろ母艦群が見えぬものかと眼を凝らす雨宮の眼の隅が低空を周回する艦攻一機を捉えた。あれは味方の対潜哨戒機だ。何機飛ばしているのかは知らないが、すでに敵海域に入っているのだから当然の配慮といえるだろう。これで艦攻の予備機はまったくなくなった。あればそれも索敵に投入するところだろう。

「小隊長、『比叡』です!」

と、だしぬけに小野が頓狂な声を張りあげた。高速戦艦群だ。「霧島」、「金剛」、「榛名」とつづく。「霧島」には親友の兵頭も乗り組んでいるはずだが、果たしてどうしていることか。今夜、夜陰に紛れてカウアイ海峡を突破すれば、四隻の戦艦が放つ主砲弾の雨に見舞われて、深夜にパールハーバーは火の海となるだろう。

彼らが破壊するのは敵の艦船や砲台ばかりではない。アメリカの戦意そのものを打ち砕くのだ。ホノルルの街に累が及ばないことを希うばかりだ。




11




「ズズーン」と、腹の底に沁みわたるような主砲の轟きがあたりの夜気を揺るがす。

ついに戦いの火蓋が切って落とされたのだ。吊光弾に照らしだされて、黒いビロードの海と空のまんなかに円形舞台のように、ミッドウェイ島が浮きあがる。

弾着のつぎの瞬間、いちだんと大きな火焔が夜空に吹きあがる。目標に命中したのだ。「伊勢」は島から距離一万三千メートルを保ちつつ、逆時計回りに緩やかに弧を描きながら、前部主砲斉射、一瞬おいて、後部主砲斉射をくり返す。

双眼鏡をあてると、吹きあがる火焔のなかに、宙を舞う兵士たち、武器・弾薬、ドラム缶、土嚢が、克明に見える。

島からは何の反撃もない。斉射と斉射のあいだ、一瞬のしじまに、小火器の爆ぜる音が遠く聞こえる。闇雲に手もとの武器を乱射する敵兵の狼狽ぶりが伝わってくるようだ。

島からの距離八千メートルを保って同じく逆時計回りの緩やかな弧を描いていた水雷戦隊がその弧を絞って七千五百、七千メートルの距離から主砲を発砲しだした。どんどん接近してゆく。副砲も撃ちはじめた「伊勢」は島からの距離八千五百メートルまで接近しようとしていた。

そのときだった、それまで沈黙をまもっていた島の沿岸砲が突如、火を噴いたのは。

距離二千八百まで肉薄した先頭の軽巡「川内」に、二発、三発と始めから至近弾を浴びせかけてくる。満を持していたのかもしれない。たまらず「川内」は面舵を切った。つづいて大きく沖へ舳先を向け変えた駆逐艦「吹雪」の一番主砲に直撃弾が命中した。砲身が宙に吹っ飛ぶ。大破炎上して沖へ避退する「吹雪」を至近弾がなおも追う。残り四隻の駆逐艦は進路そのまま、主砲、副砲、機関砲、機銃にいたるまで、突撃しながらすべての火器を撃ちまくっている。

ようやく敵沿岸砲台に照準をあわせた「伊勢」の主砲、副砲が火を噴く。一瞬、島が浮きあがるかと思えた。直撃弾を浴び、轟音を発して敵陣地が砕けとび、沿岸砲は沈黙した。あとは平坦な島そのものを耕すかのように、各種砲弾が撃ちこまれ続けてゆく。

いまごろは真っ赤に焼けた砲身に甲板員総出で海水をぶっ掛けているのだろう。それでもひとしきり止んだ「伊勢」の主砲がまた火を噴く。ミッドウェイ島全体が紅蓮の炎を噴きあげて、漆黒の大海原に浮かぶ紅い花瓶のようだ。寝込みを襲われた敵兵が生き残っているようにも思われない。彼らの大方はわが身に何が起こったのかもわからぬままに昇天していったことだろう。

大破炎上し、避退した「吹雪」がこちらに近づいてくる。自走できただけでもめっけものだった。被弾した一番砲塔近くの艦腹は大きく抉り取られ、とても双眼鏡を当てつづけるには忍びない。すでに負傷者移乗のためのカッターをこちらから出してある。一番砲塔員が全滅したほかにも乗組員や便乗していた陸戦隊員に若干の死傷者がでた模様だ。早くも飛行甲板の零戦全機がエンジン音を轟かせている。「鳳翔」の艦橋わきラッタルに凭れて負傷者移乗のさまを眺めていた川名少尉はしばし忘れていた戦いの実相に触れた思いにいまさらのように身震いを禁じえなかった。これは武者震いだろうか? 違う。さりとて恐怖でもないが、生を求める何かだ。

気がつけば、はや東の水平線が白みかけている。四機編隊の零戦はすでに三個小隊、発艦している。残るしんがりの三機を率いて川名少尉は「鳳翔」を飛び立った。飛びさる波間に、戦闘帽をうち振る大河原少年の笑顔が浮かんだのも一瞬のことだった。愛機はすでに戦闘空域に突入した。島の上空、七百五十ないし千三百メートルで、五、六機の敵機を相手に、先行した零戦八機が空中戦をくり広げている。傍目にも、味方は余裕のある戦いぶりだ。すでに敵の一機が、エンジンから火を噴いたかと思うと、錐もみ状態に陥って、海面に落下していった。

そんな空中戦を尻目に、川名機は列機を率いて、朝日を背に、敵飛行場に突入した。瞬間、凄まじい対空砲火が川名機を見舞った。いったい連中は「伊勢」の艦砲射撃を喰らわなかったのか? 至近弾の爆風に翻弄されながら必死に機の体勢をたて直す川名少尉の目の隅が、いま穴だらけの飛行場を離陸しようとする敵一番機を捉えた。バンクし、すかさずダイブしてこの敵機に襲いかかる。

敵機の十メートルも前方を狙って引き鉄をひきつづけると、十四ミリ弾が敵機のプロペラ、エンジンカバー、風防の順に吹き飛ばしていった。たまらず敵機は海岸の岩場に激突、炎上した。操縦桿をぐっと起こして急上昇に移りながら、後ろ下方をふり向くと、味方の小出二番機、工藤三番機が離陸途中の敵の二番機、三番機を捉えていずれもすでに火を噴かせていた。敵にはもう四番機はなかった。あぶれた大石四番機が猛烈なダイブを敢行して、いちばん五月蝿かった敵の対空陣地を掃射、沈黙させた。

被弾はしたものの犠牲は出さずに空中戦をおえた他の零戦も、各個に対地戦に力闘した。味方艦隊上空に達した敵数機を撃破した艦内積載組の艦戦六機、ついで残り六機が翔けつけてきたころには、当然、上空には一機の敵機も見当たらなかった。

《艦隊の直掩は水戦隊にまかせてすっ飛んできたのだろうに》

と、川名少尉は可笑しくもあり気の毒にも思った。

やがて対地爆弾を搭載した艦攻十二機と艦爆十二機の編隊がミッドウェイ島上空に現れて、艦攻は整然と水平爆撃を実施し、艦爆は各個に目標物に急降下爆撃を敢行して、母艦「鳳翔」に帰投していった。

そんななか「伊勢」めがけて突進する敵魚雷艇を直掩の水戦がめざとく見つけて銃撃、避退させた。後続の魚雷艇二、三隻は、駆けつけた味方駆逐艦が零照準で直射してあっけなく撃破、沈没させてしまった。水戦に追われて避退した先の魚雷艇も急遽、翔けつけた艦戦三機にエンジンルーム、燃料タンクをさんざんに撃ちぬかれて大破炎上、沈没してしまった。

それからは二十八機の零戦が狭い島の上空を飛び交って、なおも対地攻撃に専念した。すでに司令部と思しき建物、兵員宿舎、飛行場、基地管制塔、弾薬庫、食料庫、港湾施設……島上の構造物で全半壊し、炎に包まれ、黒煙に蔽われていないものはない。

敵飛行場の列線にならぶ半壊した敵機にも零戦の弾丸の雨が容赦なく降りそそぐ。独立零戦機は各個に敵の機銃座を見つけては一つずつ潰してゆく。被弾機まで戦いを放棄しようとしない。さしもの対空砲火の弾幕もやや下火になってきた。

最近、敵空母から補充されたばかりと思われる新鋭機三十数機を含めて敵の航空機五十数機はこうして壊滅した。弾丸を撃ちつくした機から先に、対空砲弾の残した雲をくぐって零戦がつぎつぎに母艦に帰投し始める。

《攻撃やめ!》の合図にバンクし、上昇する。列機も《分かった》と、バンクしてあとに続いて上昇してくる。これなら通話装置は要らない。苦笑を漏らしながら、川名少尉が新品の機上電話に呶鳴る。

「二番機、三番機、四番機、無事か?」

「二番機、異常なし」

「三番機、異常なし」

「四番機、異常なし」

「よし。いまから全島外縁を周回する」

どこまでも広がるコバルトブルーの大空。かつてはシロアジサシが舞いかう美しい珊瑚礁、それがいまは紅蓮の炎をあげ、真っ黒な煙を吐きだす地獄の島ミッドウェイを除けば、清んだエメラルドグリーンの大海原が果てしなく美しい。

ふと妙な風切り音に右に目をやると右翼に被弾し数ヶ所捲れ上っている。

最後に地上にダイブしたときのことだ。執拗な火線に乗るように機を急降下させると地面がぐんぐん眼前に迫り、機銃把にとりついて必死な顔のアメリカ少年と目があった。

《やられる!》

その瞬間、愛機の放った十四ミリ弾が米少年兵の脇に無造作に重ねられた弾薬箱に着弾し、銃座もろとも少年は吹き飛んだ。刹那に操縦桿を起して反転急上昇する川名少尉の瞼に少年の恐怖に歪んだ天使みたいな美しい顔が焼きついてしまった。

《殺しあうのではなく、愛しあえたならどんなによかったことか! おれたちの真の敵は背後にいるのだよ!》

 川名弘人は東京に潜む同志たちのことを思った――第二戦闘団の野々川、あるいは井上あたりが暴発していなければよいのだが。不思議と愛子のことは思い浮かばなかった。それどころか奈々の兄、七郎の無惨な死体が大空に浮かび上がってきたのには参った。

《もしもおれが生きて還れたなら、非道な政治家・軍閥のひとりとして生かしてはおかぬ。みな、喉を喰いちぎってやる、おれが狼男に変身したならばナ》

と、低く苦い笑いを噛み殺し、少尉は現実にひき戻された。空戦と対地攻撃の終了を見計らっていたかのように、「伊勢」が艦砲射撃を再開したのだ。主砲弾の弾着ごとに翼がびりびり揺れる。いつのまにか戦艦は距離八千メートルまで島に接近している。

「川内」と四隻の駆逐艦は距離二千内外まで肉薄して、砲ばかりではなく増強された対空機銃まで動員して敵の海岸陣地との銃砲火の応酬を再開した。

残弾、燃料ともに乏しい川名少尉の小編隊が母艦への帰還を急がないのにはそれなりの理由があった。島の真北百キロの海域まで進出してきているであろう空母に還るのに迷うはずはなかったし、真っ直ぐに帰っても着艦の順番待ちで母艦の周囲を旋回させられるのがおちだから。どのみち艦内積載の零戦がすべて収容されるまでは甲板組に着艦の番は回ってこない。川名小編隊が「鳳翔」の上空にようやく姿を現したころには四機の燃料計の針はいずれもゼロを指していた。

「小隊長、燃料がありません」と、小出機。

「ガス欠だ」と、これは工藤機。

「慌てるな、メータがゼロになってもまだ八十キロは飛べるぞ」と、川名少尉。

「そうとも、プロペラが止ったらダイブして揺すってみろ、また動くから」

と、古参の大石機は余計なことをほざく。全機無事生還したけれど、損傷機の続出で狭いうえにもなお狭くなった母艦の飛行甲板に、川名少尉は最後の最後に着艦して、鮮やかな三点着地を決めた。

風防を開け放つと同時に、大河原整備兵が涙で顔をくしゃくしゃにして抱きついてきた。みなが笑う。太陽の光線を満身に浴びつつ、飛行甲板に降りたって泣き顔の美少年と肩を組むと、真っ白い歯を見せてみなに笑い返しながら照れ隠しに川名少尉が言ったものだ。

「いや、燃料タンクは空っぽ、おまけに翼にこんなに風穴まで空けられたから、機体が軽いのなんの、おかげで三点着地が見事に決まった。そういやぁ、胃も空っぽだがね」




12




「艦長、見てください」

と、緊張した面持ちで、春山大尉が潜望鏡を艦長に譲った。

「うむ」

戦闘帽の目庇をぐいと後ろに回した艦長が潜望鏡を覗きこむ。

アメリカ西海岸、遠く東にコーストレンジズの山並みを望むサンタバーバラ諸島沖で、過去三日間、ロス=シスコ間の頻繁な往来をつぶさに観察した瀬川艦長の目にもこれは大きな獲物と映った。船尾を西日に照らされて悠然と去ってゆく貨物船は貨物を満載し、喫水線が下がっていたが七、八千トンは下らなかった。惜しい獲物であったが、前に回りこむ暇はない。すぐ後に一万二、三千トンはあるタンカーがさしかかっていたからだ。こいつを喰らうことにする。

すでに戦端は本日正午にパールハーバーで切って落とされていた。それを知ったのはつい三十分ほどまえ、ひとえに無線傍受のためだけに、薄暮まえ浮上の危険を冒して敵哨戒域に五分間、アンテナ深度まで浮上したからだった。

「面舵一杯、ようそろ」

艦の軸線がタンカーの進路と直交するように調整しながら微速前進。距離九〇〇。ちと遠い。速度を上げる。距離七五〇、よし。

「艦首、三番管、発射用意!」

「てえっ」

四、五秒おいて真っ白な雷跡がするするとタンカーに伸びてゆく。一五、一〇、五……「グワーン」命中の衝撃波が艦の外殻に伝わる。一拍おいて艦全体が大きく揺れた。タンカーの船腹から紅蓮の炎が噴きだす、と見る間にタンカー全体が大きなオレンジ色の塊に包まれてその球状の固まりはさらに大きく膨らみ、たちまち潜望鏡の視野全体を覆ってしまった。赤い闇。高温のファイアーボールだった。

艦長は事前にひとつ肚を決めていた――商船相手には通常魚雷一発で勝負する、外れたら見逃す、それが海の男の仁義だ、と。だからこそ一、二番管の酸素魚雷の使用は控えた。しかし艦長はタンカー相手では当然予測されたにもかかわらず、このことだけは予測していなかった。

ファイアーボール! あの巨船の船長、航海士、機関士、通信士、乗組員、コック、見習い船員、便乗者、誰ひとりとして助かるまい。高温の火の玉に包まれて一瞬のうちに蒸発してしまった。五十余名の海の男、その命を一瞬にして奪う、その命令をおれは出したのだ。初戦果に沸く艦内で、瀬川艦長だけが内心の身を捩る苦悩を外へ漏らすまいと、硬直しきっていた。

「スクリュー音、聞こえます」

突然張りあげた音響探知員の声に艦長はわれに返って潜望鏡をぐるりと回す。

「いた!」

先ほどの大型貨物船が後続のタンカーを見舞った惨劇に気がついて、救助のために反転してきたのだった。なおも潜望鏡を回す。あたりに他の敵艦船がいないか、再度、確かめた艦長はすでにいつもの沈着豪胆な艦長だった。

「潜望鏡、下げ。微速前進。こんどは戻ってきたあの貨物船をやる。艦首、四番管を使うんだ。先任、替われ、しっかりやれ」

 突然の指示に、春山大尉は戸惑う暇もなく、艦長に代わって戦闘指揮を執った。

「潜望鏡、上げ!」

待ちかねたように春山が潜望鏡を覗くと、すでに眼前五百メートルに貨物船の船腹が見えた。

「四番管、発射用意!」

「撃てえ!」

潜望鏡のなかを雷跡がするする伸びる。そうとは知らず、貨物船上は救助のカッターを降ろす作業に大童だ。いや、気がついた船員の一人が舷側に身を乗りだして、一直線に迫る雷跡を指さしながら、操舵室に向かって声を限りに叫んでいる。

《もう遅い!》

ふたたび艦を揺るがす命中の衝撃。艦内は歓声でどよめいた。貨物船は右舷、喫水線下に被雷して大破浸水、火災さえ生じていたが、見た目には依然その船足に衰えはない。

「ごくろう、よくやった」

艦長が春山大尉の肩をぽんと叩いて戦闘の指揮権をとり戻す。

「浮上! 砲戦準備!」

 すでに夕闇の漂う海面に伊号潜はゆっくりと浮上した。

海域のこのあたりだけが妙に赤く明るいのは、先刻爆発したタンカーのファイアーボール、その名残りのせいか。四散して漂う浮遊物のうえにまだ炎と煙がくすぶっている。

泡だつ海面上に艦橋が現れると、まだ波に洗われているハッチ内に待機していた砲員と機銃手が甲板上に跳びだす。

目の前の貨物船は艫を大破し、いまはほとんど行き足が止まり、大浸水で右舷に五度傾き、火災が拡がっていた。タンカー救助に降ろしかけたそのカッターで、当の貨物船の乗組員が脱出しようとしている。

「艦長、救難信号を打電しています!」伝声管から通信士の声が響く。

「よし。砲撃。目標、ブリッジ後方、通信室!」

「てえっ!」

「ズズーン!」

初弾がブリッジ後方に炸裂した。貨物船は傾斜をさらに深めて沈没しかかっている。ゴムボートを海面に投げ出し、付近に飛びこむ船員たちの姿が見える。

「撃ち方やめ! 後進。取り舵、ようそろ。一八〇度回頭!」

 完全に回頭しおえて前進しだした潜水艦の艦橋から艦尾方向を見やると、すでに海上には大型貨物船の姿はなく、暗い波間に四散したタンカーの浮遊物が鬼火のように燃え、遥か遠くにコーストレンジズの山の背が落日に赤く染まっているばかりだった。気がつけば、誰からともなく、波間に沈んだ死者たちに敬礼していた。

「全速前進!」

夜の帳の下りる大海原を一路西方へ、一旦沿岸航路を大きく外れて避退し、通常魚雷を補填、海上走行で充電が完了したらまた航路に舞い戻り北上、明け方まで次の獲物を待ち伏せる肚だった。こうして伊一五と春山大尉の長い苦闘の日々が始まった。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム